人生は遊戯場。私は目覚めた奴隷。

社会において人々は、各々が自らを整形し、善人という役柄を演じながら生きている。それができない人間は悪人として排除される力学が働き、そのようにして社会空間は維持される。だがそうしていくうちに、整形する以前の自己の顔―――すなわち本性を、人々は忘れてしまう。あるいはそれを精神的に切り離してしまう。多くの人間は、善人という役柄にアイデンティティと人生そのものを帰属させてしまう。

 

別に私はそれでいいと思う。むしろそのままであってほしい。こと私以外の人間に関しては。そうすることで平穏で安心できる社会という空間が維持されるのであるから。

 

しかし、私自身は善人として生きるということに耐えられない。生への意志が減退し、無気力になってしまう。だから、善人の着ぐるみを着用しつつも、そこから溢れてしまった本性を大切にしたい。むしろそうしなくては、私の場合は生きることができない。

 

もしも善人として生きることができたならば、それはどれだけ幸福なことであろうか。それが自然状態であろうと、なかろうと。私はかつて善人として生きるため、懸命に自らの整形を試みた。出自の分からぬスピリチュアル本からキリスト教的道徳、カントの定言命法からレヴィナス倫理学。私は聖人になりたかった。しかし、その試みを続ければ続けるほどに、私の生への意志は減退し、数年間の無気力な引きこもりを経験した。善人として生きることは、私にはできなかった。

 

このブログでは、私自身の本性ーーーすなわち生への意志を忘れてしまわぬように記録していきたい。いわば生きるための防備録である。