女子高生との接し方1

 

今日は例の女子高生(以後N表記)が、そこそこのミスをしてしまうという出来事があった。Nは真面目な子なので、自責の念からか涙が溢れそうになっていたが、仕事中であるためかそれを必死に堪える姿が健気でとても美しかった。正直、落ちてしまったかもしれない。これがJKの涙の力か。

 

というように私が彼女の涙の美しさに感動している間に、同じバイトの先輩が彼女を励ましていたが、これがとてつもなくお見事といえる励まし方であり、なんというか人間力の差を見せつけられた気分である。これが男の先輩であったら、Nの恋心を盗まれていたかもしれないと一人で落ち込んでいた。

 

私もNにありきたりの言葉をかけてやったのだが、なんというか正解が分からず仕事をするふりをして彼女の側を離れてしまった。その先輩のような悪くいえば大げさな励まし方を私が試みたとしても、どこか芝居じみていて自分自身がそれに耐えられなさそうである。

 

恐らく2人きりならそういうことはできる。元カノにもそういうことはしてきた。だが、パブリックな空間、他者の目が蔓延る空間になると中々難しい。私は接する人それぞれにおいて適切な人格を選択し、それらを使い分けているということもあり、マンツーマンを超えた人数のコミュニケーションが尋常ではないほど苦手だ。これは今後の人生を考えると、問題かもしれない。万人の前で通用する統一されたキャラをつくりあげねばならないのかもしれない。

 

 

だがそれ以前に、「他者の心」というものにリアリティを人並み程度に感じることが私にはできない。まず人並み程度に感じるということ自体が意味不明である。「他者の心」の存在自体を疑っている節もある。すくなくとも<世界>には存在していないのだから。そんな私が、人情溢れる先輩ほどの励ましなど、到底できるわけないのだ。私はNの人格を愛しているのではなく、Nを認識する際に現象する美を所有したいだけなのだ。

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なんというか彼女と同じシフトに入るのが苦痛である。失態を晒してしまったら困るからである。こうなると彼女とのおしゃべりをして楽しむ余裕はなくなり、正解のアクションを選択し、彼女の好意を維持できた場合にのみ、安心感という名のつかの間の喜びがあるだけである。

 

私はいつもそうだ。不安の感情が強く、そのときを楽しむことができない。人生そのものが正解のアクションを選択したときの安心感と、失態を晒す可能性に怯える不安感とで構成されている。

 

もう、そういうのはやめにしようと思う。ニヒリズム相対主義ヴィパッサナー瞑想がその役に立つと思う。